前回の投稿で扁鵲の六不治をご紹介しました。
その続きです。

六不治の内容は以下の通り。

病に六つの不治あり(病気が治らない理由に六つある)司馬遷・史記別巻

  • 驕恣理を論ぜざるは、一の不治なり <患者がわがまま>
  • 身を軽んじ財を重んずるは、二の不治なり <身体を軽んじお金を大切にする>
  • 衣食適する能わざるは、三の不治なり <衣食が病気にふさわしくない>
  • 陰陽并背、臓気定まらざるは、四の不治なり <陰陽の調和がくずれて臓気が定まらない>
  • 形つかれて服薬能わざるは、五の不治なり <体が衰弱して薬をのむことができない>
  • 巫を信じ医を信ぜざるは、六の不治なり <宗教を信じ医学を信じない>

以上「難病ドットコム」より(http://jpma-nanbyou.com/index.aspx)

前回書いたように、私は鍼灸師になったばかりの頃これを知り、第六の不治「巫を信じて、医を信じないものは治らない」という言葉に感激しました。

この声明を出した当時の医家たちというのは、私たち鍼灸師にとっては学問上、あるいは思想上の祖先とでもいうべき人々なわけです。
鍼灸医学の黎明期における先達の生き生きとした宣言に、いささかロマンチックな共感を覚えたというところでしょうか。

心の問題

その後私も帰来堂を開業し、臨床経験を重ねてきました。
そうすると他の項目にも目が行くようになってきます。

特に最初の3項目ですね。

三番目の不治として「衣食を適切にしない人は治らない」
冷え取り健康法のことをお知らせしても全然やる気がない。鍼は受けるけれど、生活は不摂生なまま。
こうした方の場合は、治療をしてバランスを調え症状を和らげることはできますが、本当に治るというところまではなかなかいきません。

さらに興味深いのは最初の二つです。
これはどちらも心がけについてのもの。まず第一に考え方を正せ、と言っているのです。

6つの不治のうち、心がけについてが三つ(傲慢、けち、迷信)、生活についてが一つ(衣食)、残り二つが身体の状態(病の状態が悪い、身体が衰弱している)となっています。
心がけが一番大事なんですね。
これは「冷え取り健康法」の創始者・進藤義晴先生がしばしば仰っていたことです。

とにかく早く治して楽にしてほしい、そうしたことで気持ちがいっぱいになってしまって、なぜそのような症状が出てきてしまったのかについては興味がない。ご自分の身体の問題なのに、まるで機械が壊れたので修理に来たかのような態度で、これまでの生活の間違いを省みるどころではない。
ちょっと極端ですけど、こんな感じの方もときどきいらっしゃいます。
驕恣理を論ぜざるは…と思ってしまいます。

それから第二の不治、財(お金など)をけちって身(健康)を軽んじる、というのもやはり治りづらいです。
なるべく安くすませたい、少ない治療回数で治してもらいたい、というのは当然のこととして理解できますが、やはり限度はあります。

お金というのはデリケートな問題です。報道によれば、最近は本当に困窮している方も少なくないと聞きます。
でもそれとは別の話として、「お金の使い方」は生きていく上で重要な問題ですので、あえて述べてみます。

お金を支払って何かを購入するということは、エネルギーの交換をするということなのだという考え方があります。
治療院の場合は、お金と施術行為を交換しているわけです。
なるべく少ないお金で、なるべく多くの治療効果を得たいというのは、人情としてはわかります。
でも交換の法則としては受け取るエネルギーと与えるエネルギーは同等になってしまうような気がいたします。
(治療家側が過剰に報酬を受け取ってしまっていては話にならない、というのは言うまでもありません。)

病は来た道帰る

病というのは、それぞれの方の生活や生き方、心がけの結果です。
色々な事情によって病への道を歩いてきてしまったのです。

帰来堂は、その病へと来た道を元の場所に戻るお手伝いをしたい、共に歩いて帰りたい、そんな治療院でありたいと思っております。
治療とは施術者が患者様へ一方的に提供するというものではなく、ともに協力して「来た道を帰る」ための行為です。
そうしたポリシーをもっておりますので、いささか言いにくいことを書かせて頂きました。
ご理解いただけたら幸いです。