こんにちは。千種区池下のはりきゅう治療院、帰来堂の坂光です。
映画『この世界の片隅に』のことでもう少し書きたいので、昨日の投稿の続きです。

このブログのための画像を検索していたら、こんな画像があり、驚きました。
すごくリアルですね。

この映画はこのような細部に至るリアルさを追求しているのだと思います。

広島は海が近く、川の多い町です。
名古屋や東京で暮らしていると、海や川が遠いです。

広島駅から呉線に乗ると、途中から海の眺めが広がり、港を見下ろせます。
軍港の歴史を知っていますから「昔は隠されていたのだ」ということを感じます。
映画の中では港が近づくと窓の鎧戸を閉めて車内が暗くなるシーンがあり、当時の呉を知らないくせにすごく納得しました。

私たちの世代は復興した広島市に生まれ、原爆について小さいころから教えられて育ちました。
私の育った町は爆心地にも近く、生家から歩いてすぐの川で多くの方が亡くなりました。
原爆の被害について、当時の広島について、まるで想像上の記憶を持っているような気がすることがあります。

この映画は原爆がテーマなのに「反戦思想を押し出していないのがいい」という言い方をされた方がありました。
当時のことを、戦後の価値観で判断して主人公に反戦思想を叫ばせるようなドラマが多いですから、そのような評価も理解できないこともありません。戦後の価値観を入れることによってリアリティが失われるということでしょうか。

子どもの頃読んだ漫画「はだしのゲン」の中でゲンの父親は戦争に反対していました。
町内で開催される竹槍訓練に酩酊状態で参加、放屁する等全くやる気が無く、途中で抜け出した。非国民扱いされて特高警察に連行され激しい暴行を受け、一家は社会から迫害を受けていた。(Wikipedia「はだしのゲンの登場人物」より抜粋)
このシーンをよく覚えています。

でも、こんな人普通じゃありませんよね。そういう人も少しはいたかもしれないけれど。
戦後の反戦平和主義的な見方からするとゲンの父親は正義です。作者の言いたいことを父親が代弁しているのですね。
ゲンの家族は戦後的価値観では正しいかもしれないけれど、『この世界の片隅に』の方がリアルです。あの時代、淡々と暮らすしかないでしょう。

映画を観ている私たちは原爆のこともその後のことも知っています。でも映画の登場人物は知らない。そういうギャップがあります。はだしのゲンの場合は、読者の子どもはゲンに感情移入できるようになっています。
でも私は二つの作品はつながっていると思っています。
映画の舞台は呉ですから広島とは少し離れています。映画を観ている人は「はだしのゲン」で描かれた悲惨な状況を頭に描いていることでしょう。はだしのゲンのような告発型の作品があったことを前提にこの映画は成立していると私は思いました。

「日本人なら観るべき映画」と言った方もいて、何とも嫌な気持ちになりました。
やはり私は「過ちは 繰返しませぬから」の精神を大事にしたいです。
広島の人たち、特に女性たちは戦後長く差別に苦しんだ歴史があります。

この映画を「現在は失われてしまったつつましくも美しい日本人を描いた作品」として評価することも可能なのかもしれません。
片渕須直監督も
『この世界の片隅に』は、戦争が対極にあるので、毎日の生活を平然と送ることのすばらしさが浮き上がってくる。「日常生活」が色濃く見える。ふつうの日常生活を営むことが切実な愛しさで眺められる。
と書いています。(「この世界の片隅で」公式サイト
でもその結論が「日本人」というのは違うと思います。

現在の私たちの社会でこのような映画がこのような形で愛されていることは、やはり素晴らしいことなのだと思います。
この映画を好きになって、呉や広島を訪れたり、原爆や戦争について考えを深めている方も多くいらっしゃるようですね。
個人的には、幼い頃からの想像上の記憶というか仮想的なヒロシマが脳裏に刻みこまれており、現状に戸惑う気持ちです。