怒りというのはやっかいなものだ。

“できればムカつかずに生きたい”ものだが、不愉快な出来事と出会うことなく暮らすことなど無理だ。
心の中に生じた怒りを適切に処理することはなかなか難しい。

怒ることはキレることではない。
キレてしまっては相手にしてもらえず、結果として言いたいことは伝わらない。
また、怒りを抱え込んでいると心の中で怨みや憎しみに転化していってしまう。

怒りの方法 辛淑玉著(岩波新書)

なんだかいつも怒っているようなイメージがある辛淑玉さんの著書『怒りの方法』

喜怒哀楽は人間の心をバランスよく保つための装置である、と考えている。
その一部でも奪われてしまうと、心は壊れてしまうからだ。(p17)

いつもニコニコしているのがよいとされているところがあると思う。
嫌なことがあったらスルーすればよい。わざわざ問題化する必要はない、みたいな。
怒りや悲しみはネガティブな感情なので表に出すのはよくない、と考えられているのかもしれない。
しかし様々な思いがあるのが自然な心のありようなのであって、それを無理に抑え込んでしまうのは不健康だ。
そのうちに自分が怒りを抑え込んでいることもわからなくなってしまうだろう。

この本は、怒ってしかるべきことに対して声を上げることができない人が、きちんと怒ることができる方法を述べている本だと思う。普段から怒っている人が上手に怒れるようになるためのノウハウが書いてあるわけではない。

なぜ、私は怒れるのか
四面楚歌のなか、自らをよりどころに生きてきた結果、ぶれなかったのだと言えるだろう。
だから、すべてに怒れるのだと思う。
(中略)
個人で生き抜いている者はぶれない。どんなことがあってもだ。(p37)

このように啖呵を切るように書いて、怒りを表現できるようになった経緯を述べているが、本当に「自らをよりどころに生き」たら怒れるようになるのだろうか?

私は、よく怒っていると言われるほうの人間だが、当初、その怒りは主に「社会の不正」に対しての怒りだった。
他方、個人的に、私自身が侮辱されたり、軽んじられたり、蔑まれたりすることに対して怒りを表すことはほとんどなかった。
私は、私生活に近くなればなるほど、さまざまなペーソスや人間関係がからんで、怒りを表出できなくなっていった。(p50)

家族に対して「儒教的」な感覚があり、怒ることができなかったそうで、42歳になるまで母親に意見したこともなかったという。
社会の不正に対して怒るのはいわば「義憤」と言えるだろう。
みんなのためにあえて立ち上がるのと、個人的な思いを声に出すのとでは違う。
あの辛淑玉さんでさえ、というか辛淑玉さんだからこそ、母親に対して思ったことを言えなかったのだ。

人間は何のために怒るのか。
「私が私として生きるため」。この言葉が私には一番ピンと来る。(p55)

「私が私として生きる」とは嫁、妻、母などではなく「自分のための自分」になるということ。自分が自分でなければ、罵倒されてもなんとも感じない。自分を好きでいなければ、自分のためには怒れないだろう、と言う。

心を閉ざし続けていると、自分の心を見失ってしまう。
心の声に耳を閉ざすのは自分に嘘をつくこと。
それは自分が自分でなくなってしまうことではないのか。
自分に嘘をついている自分を好きになることなどできない。

人間は育っていく過程で愛情を受ける必要がある。
殊に幼少時に無条件に存在を肯定され、受け入れられなくてはならない。
両親や周りの人たちから無条件の愛情を受けることで、子供は自分の存在を無条件に肯定できるようになるという。
自分の存在を無条件に肯定すること。
これができないと大変生き辛い生を生きることになる。

自分の存在を無条件に肯定できれば、自分を好きでいることもできるであろうし、自分のための自分を生きることもできるだろう。
まず自分のための自分を生きること。その上で自分の役割を果たし、他人のために生きるのがよい。
自分を生きることなく、誰かにとっての自分しかない生き方は悲しい。

在日朝鮮人であり、女性である辛淑玉さんは、社会においても家庭においても、存在を否定されるような体験をしてきた。
そんな彼女がいかにして自分を取り戻し、怒りを取り戻したのか。
というより、いまだ取り戻す途上にあるのだろう。
家族から無条件の愛情を受けられず、社会から拒絶されながら、自らをよりどころに生きることで自分を取り戻すというのは大変にタフな作業だと思う。