こんにちは。
帰来堂鍼灸療院の坂光です。

昨日テレビでETV特集「“原爆スラム”と呼ばれた街で」を見ました。

「原爆スラム」。広島の爆心地近くの川岸に、家を失った人々が住み始めてできた街。そこにはどんな暮らしがあったのか?かつてその街に暮らした人々の声を記録していく。

戦後、「原爆スラム」と呼ばれた街ができた頃、狭い路地の両側にバラックが幾重にも立ち並んでいた。その後、広島が復興していく中で、立ち退きを余儀なくされた人々も「原爆スラム」に移り住み、街は昭和40年代に最大となる。この「原爆スラム」には、どのような人が住み、どのような暮らしがあったのか? 番組は「原爆スラム」に暮らした人々の現在を訪ね、その声を丹念にたどっていく。NHKホームページより

「原爆スラム」と呼ばれた町は、原爆ドームの北側、広島市民球場の先の河川敷に広がっていました。

私がこの名前を知ったのは最近で、『この世界の片隅に』の関連です。
原作者のこうの史代さんの別の漫画作品では「主人公が原爆スラムの一角で暮らしていたという設定」とあるのを読みました。

私が生まれる少し前から、こうした住宅の撤去が始まったようですので、それで知らないのかもしれません。
それでも近所の川岸に家が建っていたことをぼんやりと記憶しています。
撤去後に建てられた「基町アパート」はよく覚えていますが、そこに遊びに行ったりしたことはありません。

番組では「原爆で行き場を失った人たちが自力で作り上げた街で、そこに住む人たちの労働力によって広島の町は復興した」というような感じで紹介されていますが、こうしたことは当時はある種のタブーというか、わざわざ子どもに話して聞かせたりはしなかったのでしょう。

私が知らなかっただけかもしれませんね。何しろ町の真ん中ですから。
周辺には美術館や図書館があり、私も中高生のころよく利用していました。でも、それができる前がどんなだったか全く知りません。

スラムというと私が知っているのはケニアのスラムです。
番組で紹介された『原爆スラム』はこの写真のような暮らしとは大分異なっていて、外見はきれいではありませんが、中は綺麗になっていて、大抵の家にはカラーテレビがあったそうです。不法に建築したバラックではあるとしても、それを「スラム」と呼ぶのはいささか憚られる感じがしました。

番組の中で印象的だったのは撤去の様子です。
戦後(被爆後というべきでしょうか)行き場を無くした人たちが広島市内の各地に住み着いていたのですが、それを昭和30年代に順番に強制撤去をしたそうです。

ケニアでも最近スラムの住宅の強制撤去が始まっています。
いきなりブルドーザーがやって来て、有無を言わさず家を破壊してしまうということで、ずいぶん乱暴なやり方をするものだと怒りを感じました。
昨日の番組を見ると、広島においても同じようなことが行われたことがわかりました。

番組の最後に、元の住民の方たちに「今と当時とどちらが幸せですか?」と質問していました。
その答えは「当時は生活は大変だったけれど、自分だけが貧しかったわけではないし、活気もあったしあのころの方が楽しかった」というようなものでした。
貧しくても愛があれば、楽しいこともあって幸せを感じることができるということかもしれません。

正直に申し上げて、何とも複雑な気持ちになる番組でした。
近々再放送もあるようです。多くの方にご覧頂きたいと思います。